菅原道真公
※この文は、「滝行の会」スタッフのN女子のご協力を得ました。
学者出身の優れた政治家
菅原道真は大学で歴史や詩文を教える文書博士(もんじょはかせ)を代々歴任する学問の名家に生まれた。道真は幼少の頃から非凡な才能を開花させ、やがて文書博士に就任する。
勢いを増す藤原氏の勢力を押さえたい宇多(うだ)天皇に以降を託された道真は、天皇のブレーンとして政治改革に邁進する。学者の家系として異例の右大臣まで登りつめた。
藤原氏の讒言による失脚
ところが、脅威と見た藤原時平の讒言により、道真は九州の大宰府の長官に左遷されてしまう。黙って受け入れた道真は、旅立つ朝自宅の梅の花に「東風(こち)吹かば、にほいおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」(春になって東風が吹いたなら、太宰府にいる私のところへ梅の花の香りを届けておくれ。私がいなくても春をわすれてはいけないよ) と語りかけたと伝えられる。
太宰に就いて二年ののち、道真は死去する。
死後三十年恐れられた道真の祟り
道真が去った後、都では天変地異が続く。激しい雷雨、飢餓、、疫病の流行で多くの死者を出した。さらに、藤原時平を始めとして左遷に関わった人々が次々と病に倒れ死去する。
また、内裏に激しい落雷があり、左遷に関わった藤原氏ゆかりの人々が、顔面や腹部の焼けただれた姿で発見されたことにより、人々は「道真の祟りだ」と恐れた。天災への恐れと相まって、道真の死後、約三十年にわたって「道真の祟り」が人々の口に上り続けた。
怒りを鎮めるために神に祀る
朝廷は道真の怒りを鎮めようと、京都北野の地にある北野社に道真を神として祀る(北野天満自在天神宮)。道真の祟りを恐れた藤原氏により、手厚く祀られることとなった。
天神として祀られた道真は荒ぶる祟りの神の姿から、罪をそそいで恵みをもたらす慈悲の神に姿を変え、人々の信仰を集める。さらに道真のがくさいにあやかって学問の神として信仰は広がっていった。
平安中期より現代に至るまで、学問の神様として人々の信仰を集めている。
天神社
〒357-0014
埼玉県飯能市平松376 円泉寺境内