当寺は新義真言宗系の真言宗智山派に属します。他にも豊山派、新義真言宗があり、両祖大師として弘法大師と興教大師覚鑁上人は、大事な方々です。
お勤めの時や、ご法事には、必ず両祖大師の御法号「南無大師遍照金剛」「南無興教大師」とお唱えいたします。
興教大師覚鑁聖人は平安末期の嘉保2年(1095年)-康治2年(1144年)の僧侶で、高野山の座主を務めていました。
訳あって山を下り弘田荘内に移り、根来寺の祖となりました。
今の根来寺は規模が小さいですが、室町時代には450の坊があったそうです。
豊臣秀吉に根来寺は焼かれ、多くの僧侶は全国に散らばりました。
根来寺 根本大塔
徳川側であったために、江戸時代には重用されたようです。智山派、豊山派、新義真言宗は、関東に多くの寺院があります。
廟のある真義真言宗総本山根来寺には、三回お参りに行きました。
本坊 根来寺事務所
多くの学侶(僧侶)と行人(僧兵とは言わない)がおり、行人は根来衆と呼ばれ、大きな力を持っていました。
根来の行人は、頭を丸めておらず、髪の毛を背中まで長く伸ばしていました。何処からも根来の行人と分かる姿だったようです。
種子島から天文13年(1544)鉄砲を伝えたのが、根来の行人でした。ヤフー知恵袋
ポルトガル人が、再び日本に大量の鉄砲を持ってきましたが、日本各地で、もっと優れた鉄砲が作られていたために、売れなかったと聞いたことがあります。
その時、銃の部品を止めるネジを知り、日本でもネジが作られるようになりました。
優れた職人が、日本にはたくさんいた訳です。
そのこともあり、アジアで植民地にならなかったのです。
徳川家康側だった根来衆に危機感を覚えた豊臣秀吉により、多くの建物が焼かれてしまいました。
多くの僧侶達は、日本全国に散らばり、江戸時代になると、重く用いられる僧侶も出ました。
特に新義系の寺院が関東に多いのは、このためでもあります。江戸時代は全国に約1万五千もの寺院があったそうです。
幕府に仕えた行人もおり、根来の姓を名乗ったそうです。根来組wikipedia リンク
日本で最初に根来を名乗ったようです。
今でも智山、豊山、新義を合わせて、約六千ヶ寺あります。
一行阿闍梨は、真言八祖の一人です。
向きが反対になりますが、興教大師像とほぼ同じ図柄です。うっかり興教大師と間違えそうです。
※興教大師の画像(工芸品・印刷)は、色合いが悪いために補正致しました。実際には青い色合いです。
※追記 2022/08/25
興教大師御影色紙